大阪写真月間2009忘牛存人と思う2009/06/01 09:59

 写真月間も後半に入り、私はもう既に明日が搬出日です。
今年も様々なテーマの写真が展示されました。昨日一緒にギャラリ巡りをした友人知人の皆さんとお話をしていたのですが、様々な思いを持って様々なテーマで、様々なスタンスで作られた作品が一堂に会しているその素晴らしさと楽しさが、この大阪写真月間の最大の美点ではないでしょうか。
 非常に作家性の強い作品もあれば、サロン的作品もあるし、流行の写真教室的作品もあります。技術的な巧拙はあるかもしれませんが、その表現方法に優劣などありません。どれもが賞賛されるべきもので、同時にどれもが批判の対象となるべきものです。

 "どの花見てもきれいだな"と童謡「チューリップ」に歌われてるように、私にはどの作品も「うんうん」と思えます。自己満足で表現の空回りしているかのような作品がダメですか?私にはとてもそれが可愛らしく思えます。「これが写真なのだ」と押しつけがましい風景写真にアレルギーが出ますか?私にはそれはやはり美しい写真に思えます。それぞれの作品が作者の自己満足に付き合わされているように感じますか?私はそれが楽しいと感じますよ。

 写真表現に一つの決まった「解」は無いと私は思います。「写真表現とは『私はこう感じました。あなたはどうですか?』との問いかけである」という、京都の老舗写真ギャラリ「・DOT」の岡田悦子氏の言葉をいつも意識しています。あなたのお好みに沿うように作りましたというのもありでしょうし、あなたの神経を逆なでするように作りましたというのも過激かも知れませんが「あり」だと思っています。(もっともこういう大きなイベントの場合は個展よりもずっと強くポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスの縛りがかかるとは思いますが)

 大阪写真月間にはひとつの「鍵」があると思います。それは、このイベントがコンテストではないということです。無論(前述の社会一般の通念に沿った常識的な縛りはあるでしょうが)出品に審査もありません。競わない、審査しないと言う事はそれぞれの表現の尊重が担保されているという事です。これは素晴らしい精神であると言えるでしょう。権威を嫌う大阪らしい考え方かも知れません。この精神はいつまでも大切にして欲しいと、ほんとうに願います。

 さて…
 禅の十牛図のひとつに「忘牛存人」があります(十牛図や忘牛存人については検索して下さい)。私にとっての写真もここらあたりまで来ているかな?と時々思います。口では嘘くさい謙遜をしていますし腹の中ではいつまでも生臭くありたいとも思っています。しかし今、実感として、自分の写真行為は全く生活の一部として組み込まれ、自然に事が運ばれているように思えます。特に意識し、意気込むでもなく。自然に、あたりまえに撮影をし生活をしているかもしれないなと思います。
(忘牛存人については、たとえばこちら。http://www5.ocn.ne.jp/~mazuchk/07bougyu.htm
(十牛図に関しては、たとえばこちらが。http://shop.rinnou.net/shop/A125/QSgyt6ZbX/syoinfo/601

 私は自分探しの旅をするような人間ではありませんが、自分にとって写真を撮ると言う事はどういう事なのか?と常に意識はしています。写真は生きて行く中での大きな愉悦であるところからはじまり、今はもう少し愉悦とは別のものへと変化しているように思えます。そしてその過程の中で、写真は「みんなちがって、みんないい」と今は思えます。
 おそらくこの先、そんな事も意識しなくなってくるでしょう。十牛図の暗示から考えれば。きっとあと20年(私が生きていればですが)たったら「ああ、うろぼろす堂も呆けたなぁ」と言われるでしょう。でもそれは呆けたのではありませんよ、「入鄽垂手」です。

 わいわいと賑やかな世界からほんの少し離れたところに立って、しかししょっちゅうその世界に入浸っている、そんな自分の感覚から写真月間や、その写真月間を評したブログなどを読むに付け、いろんな考えがってまたそれもありだと、思うところあって少しエラそうに書いてみました。

長文失礼。

大阪写真月間2009終了2009/06/05 09:12

 二日の日に写真月間での展示が終了しました。今年も例年と同じく楽しく過ごせ、また次の写真展への構想などもつらつらと考えていました。ああもしようこうもしようと思いますが、なかなか実行には移せませんね。

 この大阪写真月間が今年限り、もう来年は無いかも知れないという噂もあるそうです。そうとしたら残念ですね。来年は裏方でなにかお手伝いが出来たらと思っていたのですが。
 この貴重なイベント、なんとか続けて欲しいものです。参加者としてやってきて、小さな写真展イベントを開催してみた経験からも、このイベントに提案したい事柄が幾つかあります。そのためにも裏方にと考えています。

 さて、お次は京都でのHow are you,PHOTOGRAPHY?展です。どんな作品を作ろうかと今から楽しみにしています。
 いっぱつ「お洒落」な作品でも作れないものかと思うのですが、ダメですねぇ、ちっとも作れません。

マリオ・ジャコメリのデミタス2009/06/14 20:34

ジャコメッリのデミタス

 あんまりネタがないもので、写真に関るならなんでもと、ちょっと引っ張り出してきて、下手糞なスティルを撮りました。

 これ、イタリアのエスプレッソで有名なメーカー、"illy"が出していたもので、イタリアの写真家である、マリオ・ジャコメッリの作品がプリントされています。これは修道士が輪になって踊っている作品。有名ですよね。

 カメラと同じく衝動買いです。安くはありませんでしたが、こういうものにはなかなか出会えないので、買っちゃいました。

 あんまり使う事は無く、飾って楽しんでいますが、時々はこれにエスプレッソを入れて飲み、写真が上手になるようにお祈りしています。

夢のボロ市~真夜中に小声で歌う2009/06/16 23:27

 「こう云う写真を撮りたい!」と心の奥からわき上がってくるイメージや感情もありますが、同時に、この「世界を写真に撮りたい」と思う事も多くあります。
 ずっと想っているのにまったく手も付けられないのは「銀河鉄道の夜」。多くのシーンを現実世界のなかから切り出したいと、もう随分長い間想っています。ところが想っているうちに時間切れが近づいて来ています。そろそろ急がなくてはなりません。

 多くの文学に写真を撮る気持ちを刺激されますが、こんな詩歌も、この現実世界から切り出してみたいです。ミヒャエル・エンデの「夢のボロ市」(Trödelmarkt der Träume)。詩(正しくは詞)全節を引用。丘沢静也訳。

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夢のボロ市 

きょう、夢のボロ市へ行ってみた。
世界のはじっこにあって、いろんなものがあった
盗まれたもの、投げ捨てられたもの、壊れたもの、
中古の、そしてそのまた中古の夢の品。
空飛ぶ絨毯はイガの穴だらけ、
でこぼこの光輪は、星とおさげ髪、
鍵のない空中楼閣は、錆でボロボロ、
昔かわいがられていた人形も、今は首がない・・・

そしてそんなガラクタたちのなかに、突然、
ぼくらの愛の、美しい夢も発見したのだ。
その黄金色は曇っていて、夢は壊れていたけれども、
黄金のようにすばらしく―そしてあいかわらず美しかった。
できればそれをきみに返したいと思って、
蒼ざめた男に尋ねてみた。
にやりと歯のない口をあけ、男はぼくを見つめ、咳ばらいして、
恥知らずな値段を吹っかけてきた。

なるほどそれだけの価値はある―けれどもぼくは交渉した。
敵はだまっていた、が、折れなかった。
だから夢は買いもどせなかった。
風向きがよくないんだ。もうそんなに豊かじゃないんだ。
結局すごすご手ぶらで引き返したが、
ひとつ知りたいことがあった。
あれは贈られたのか―盗まれたのか―投げ捨てられたのか ?
ねえ、きみ、教えて―どうやってあの夢があそこにまぎれこんだのか ?

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 ちなみに私の娘はカタカナで「モモ」と言う名前です。エンデの著作からいただきました。