10.04.11中崎町2010/04/16 13:53

 後悔日誌にも書きましたが、中崎町で撮影してみました。ホームページ全体の改変を目論んでおりまして、実験的にこちらに写真をアップしてみました。











































ボタン電池がコンビニから消えつつある2010/02/07 21:44

 ブログの更新が滞って居ります。なんかこう、構えてしまうんですね、簡単な言い放題な事は日記ですればいいかぁなんて思うものですから。写真も用意して、何かこう中身のあることを…と思うと、なかなか書けなくなってしまいます。

 まぁそれはともかく…

 最近、コンビニからボタン電池が、LR-44が消えてきているようです。いつもボタン電池はコンビニで気軽に買えるものと思っているので、撮影に出るとき,駅のコンビニなどで、予備のバッテリーを買ったり、言った先で買ったりしていたのですが、ここのろこはそれが困難になりつつあります。置いてある「電池」は単3か単4のみなんて店が、当たり前にあるようです。

 考えてみれば、今、バッテリーは殆どが充電池。携帯もデジカメも充電池です。ボタン電池なんてものは特に重要が無くなってきているのでしょうか。いつまでも有ると思うな…になってきましたね。

 フィルムはなくなる、電池はなくなる…やはり生き残るのはメカ駆動のカメラって事になるのでしょう。もっとも、フィルムカメラ自体がいつまで生き残れるかわかりませんが。

 LR-44の充電池とソーラーバッテリー充電器でも出ないでしょうかね、出ないでしょうねぇ…

MOZZのみなさん来たる!2010/01/20 08:33

 先日17日、拙暗室に写真家集団MOZZのみなさん、竹歳豊さん、小松里絵さん、福永洋介さんが来てくださいました。

 去年、購入した作品を届けがてらのご来訪。とりあえずコケオドシの機材は表に出ているものの、細部にていい加減な手抜きをしていることがバレはしないかとひやひやでした、なんせ、お三方とも去年は少なからぬ写真展をこなしているわけで、死に体のこちとらとは、もう生気が違います。

 短い時間でしたが、いただいたケーキを切り分けてお茶にし、楽しく過ごさせいていだきました。お茶のあとには、近所を撮影がてら散歩に出ました。ここ、重要です。ちゃぁんと撮影の事を考えていらっしゃる。私はボケーっとしているものですから、そんなことは考えてもおりませんでした。おかげで、自分の住まいの周囲の環境がずいぶんと変わってしまっていることにも改めて気付かされました。

 やはり、全身が写真で満たされているような方々と過ごすと、いい刺激になります、俄然、写真を作ろうと言う気持ちが甦ってきました。

 お三方、どうもありがとうございました。次回はお花見をいたしましょう。

追記2009/11/16 09:40

 昨日のエントリで「意識してこだわりや偏りを無くして行こうと考えています。」と書きましたが、まだ詰めが甘かったですね。

 目ざすところは、「『意識してこだわりや偏りを無くして行』く事にさえこだわらない。」ということになります。拘りを無くす事にも拘らない。って訳です。

 ここ二日で読んだ島田荘司の「龍臥亭事件」の中に「この国の民は恐ろしい鬼しか尊敬しない」と言う台詞があります。

 まったくその通りだなと思います。

 老いも若きも鬼になりたがる。そして鬼しか尊敬しない。その通りでしょう。

 私はそういうところとは距離を置いてきましたし、これからはもっと距離を置く事になるでしょう。

東京Y字路/横尾忠則2009/11/09 12:43

このボリュームで3,800円はお買い得。

 細江英公の「鎌鼬」に続いて横尾忠則の"写真集"である、「東京Y字路」です。

 写真の技術やその内容としては、淡々とY字路を写し続けたものでたいしたものではありませんが、その量たるや膨大で、よくこれだけ写して回れたなと思います。そのエネルギーが凄まじいです。それが結果としてやはり素晴らしいものと言えるものになっています。

 私と比べちゃぁいけませんが、この年齢でこのエネルギー。芸術家というのはつくづく高エネルギーなんだなと思います。私なんぞはさしずめ変温動物で、今年はまだ昨冬の冬眠から目覚めていないうちに再び次の冬眠に入りかかっている感があります。

 商売としても、シロートに毛の生えたような奴が写真集出しちゃわないうちに先にやっちゃうというなかなかのしたたかさも感じられます。

 なんだかこれでY字路が写しにくくなっちゃったなぁと思うと、なかなか癪に障る写真集でもあります。

鎌鼬/細江英公2009/11/08 18:26

復刻廉価版だけれどそれでも5,000円

 私は「ガツンと来る写真」が撮れません。大口の割には神経は細く、喧嘩っ早いくせに考え込んでしまうからでしょうか。

 この「鎌鼬」は私の好きな「ガツンと来る」写真の一つです。トーンは粗く、ファインプリントでもない…どころか、明らかなバーニングやドッチングの痕跡が見えても意に介さず見せてくる…そんなものにびくびくするような自信の無いものではないとばかりに、圧倒的な力で迫ってきます。

 私はこの手の演出写真が大好きで、「絶対スナップ。絶対非演出。」という主義ではありません、無論「絶対スナップ。絶対非演出。」と云うスタンスも大いに認めるところですが…。
 この写真集は演出写真であって、しかもドキュメンタリーのように力強く、ページをめくるたびに唸らされました。

 私がコントラストの高い、粒子の粗い、ブレもボケもある写真を撮ったとしたら…それはただの失敗写真にしか見えないのでしょうねぇ。
 それでもこんな「ガツンと来る写真」を撮ってみたいものです。いつかきっと。

 それにしても、やはり表現は「魂」だと思いました。

カラーを撮らなくなったのは…2009/10/26 18:37

 "写真にまつわるモノコト"のpbさんが怒っています。詳しい事はかれのエントリー
http://photoboze.exblog.jp/12738897/
 を読んで頂くとして、私も似たような理由で…私の場合はフィルムのカットの仕方で…とうとうラボとの付き合いを止めました。カラーは撮らない、色素画像フィルムも使わない。
 決して、写真にあるような、イエローカードをいっぱい食らったからだと云うわけではありません(多少有るかも知れませんが)。

 ラボは会社です。そして働いているのは写真の事を理解している職人さんじゃない、自動現像機のパーツもしくは端末に過ぎないのです。
 云われた事しかできないしやらない、またやれない。客の味方をして会社に睨まれたり職を失ったりすよるよりは、客の事など考えないで会社の云う事を唯々諾々と受け入れて守っていればよいわけです。しかもその会社の考えというのが恐ろしくスカタンなので、どうしようもない訳です。

 ラボが常に安定して必ず同じ答えを出してくれば、こちらも撮影機器の一つとして利用の仕方を心得て使うでしょう、ところが、不安定さだけは人間並みなのです。
 今までやって来た事がいきなり方向転換され、過去の事は知らぬ存ぜぬなんて事は当たり前に起こる。現像の結果も安定しない。時にフィルムの扱いが悪く傷が入る、スライドのマウントは紙になったりプラになったりメーカーが変わったり…。無論、イエローカードの基準もめちゃめちゃです。そこを突いたところで、向こうはひたすら頭を下げながら、黙んまりを決め込むばかりです。

 ほとほと嫌になり、ラボの世話にならざるを得ない(自家処理をする気はありません)カラー写真は止め、色素画像フィルムも使うのを止めました。カラーは自分で自分所有の機械を使ってやれるデジタルだけにしようと考えた訳です。

 もっとも、まだデジタルカラー写真をやってはいませんけれどね。

 それにしてもラボはどちらの方向を向いて仕事をしているのでしょうかね。こんなにフィルムの仕事が減りっても、まだこんなことをしている。これでは早晩、滅亡してしまうでしょう。もしかしたら、それをラボは望んでいるのかも知れません。嘆かわしい事です。

ネガの劣化始る2009/10/15 12:55

「銀化」が始ったネガ(T_T)
 掲載した写真はモノクロポジではなく1976年に撮影・現像処理されたモノクロネガです。

 モノクロネガは黒いものの前に置いて反射光で見ると反転して見える事があります(ダゲレオタイプの写真がこう云う感じ。参考http://imeasure.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-eed5.html)(http://www.monokowashi.com/senjin/photo_tech/as_you_see3.html)が、これはそれが酷くなったもので、私達は「銀化」と呼んでいます。が、この言葉、ネット上にも無いんですよね。実際のところなんと呼ぶのでしょう?

 新鮮なモノクロネガでもこういう現象は起こりますが、劣化したものはそれが酷くなります。
 またこれはプリントでも起きます。古い写真がネガっぽくなっちゃっているなんて事がありますね。

 まぁとにかくショックでした。おまけにルーペで見ると、みみず腫れのような傷…たぶんカビ…。ダブルパンチです。思い切り凹んでいます。

 さて、これらのネガはもはや救済のしようがありません。ですから、今のうちにスキャナにかけてとりあえず映像を得ておく事と、やはり今のうちにプリントしてアーカイバル処理し保存しておく事しか方法はありません。

 ごく一部とはいえ、たった33年前のネガを劣化させてしまったというのはショックです。高校生の頃にアーカイバル処理の概念など無かったとは言え、その知識を得た時点で対策を取っておくべきでした。
覆水盆に返らず。ヽ(`Д´)ノウワァァァァン!

 特に劣化を起こしているのは、カビについてはグラシン・ペーパーのネガ袋に入れていたものに、銀化については、ポリエチレンのネガシートに入れていたものに出ている傾向があるように感じます。
 同時に、これらの保存用包材に収められたものは、制作した年代が古く、従って現像定着水洗処理が不完全であった可能性も多いと思います。これらは全てベルト式の現像タンクで処理されたものです。ですから保存用包材だけではなく、化学処理の問題とも相まって劣化を引き起こしたと考えられるでしょう。

 もしこれを読まれている人の中で、昔ながらのグラシン・ペーパーのネガ袋で保存されている人いらっしゃいましたら、今すぐ止めるべきです。無論、写真保存用に作られている無酸性グラシン・ペーパー素材なら別ですが。
 とにかく間違った保存方法は一日でもはやく改めた方が良いというのが、ネガを劣化させてしまった阿呆からの意見です。

 写真の保存についての考え方は参考書も出ていますが、こちらに簡単に書かれたものがあります。
 マーク・ルーサ(米国議会図書館)著・アンドリュー・ロブ改訂・国立国会図書館訳の文章です。
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/pdf/ipi5jpn.pdf

 参考書は
http://www.amazon.co.jp/写真保存の手引き―現像・保管・展示のしかた-ローレンス・E-キーフ/dp/4639012799

手間こそが写真だった2009/10/14 20:28

 写真家のtake1mg氏のブログ、毎回静かに深い洞察が延べられているのですが、今回のエントリーは特に箴言でした。実にはっとさせられるものでした。

 "モノクロを始めて、写真は手軽でなくなった。むしろ面倒くさいものになってきた。スマートなものでもなく、ちょっと野暮ったいくらいの地道なものになってきた。"

 いままでそんな事を考えた事もありませんでした。中学生の頃、いきなりDPEから写真を始めた私は、それが写真だと思っていました。だから若い頃にはDPEに何のストレスも感じなかった。ところが今になってこれらの行為がとても面倒になってきてしまいました。「なんでこんなに面倒くさいのだろう?」と、今年なんぞはほとほと嫌になってきていたのですが、そうでした、面倒くさいのが写真なのでした。

 面倒くさくない方法を模索するのは、僕にとっては逆に写真から離れる事になるのかも知れません。だとすれば面倒を厭うて手間を省く事を考えるより、その面倒さをより楽しくスマートに、快適にこなせるようにする方がきっと良いのでしょう。

 彼は私より若く、おそらく写真の経験も私より少ないでしょう、しかし写真という行為を捉えると言う事については、私よりもずっと高みを、また真実に近いところを飛翔しているのだと思いました。

 去年の2nd6-Motion"R"展に出品された彼の作品のなかに、背の高いススキの原にたたずむ女性を撮ったものがありました。穏やかで静かな、それでいて魂を感じる名作でしたが、そうか、この洞察があの作品を生むのだな、そう思いました。

 今の私にはたいへん心に響く一文でした。

写真展より映画?写真集より画集?2009/02/04 10:59

 無論、そんな事はなく、多くの事が撮影の動機付けになったりする訳ですが、基本的には、写真そのものじゃなくて、映画や絵画、音楽、それから文学、いけばな、などの方がイマジネーションを刺激してくれるように思えます。少し写真と距離のあるものの方が、自分には好ましいです。
無論、多くの素晴らしい写真家の作品はずいぶんと肥やしにはなりますが、なんだか参考書を読んでいるように思ってしまうのは、自分がひねくれているからなのでしょうか。素晴らしい作品には嫉妬してしまいますしね、自分の腕前を棚に上げて。

 私はタルコフスキーをカリスマとしています。映像の詩人という言い方ももはや陳腐ですが、やはり彼の映画からは様々な刺激を受け続けています。その割には作る作品がぱっとしないのはタルコフスキーにとても失礼なんですが。



 「惑星ソラリス」の1シーン。そして、全ての映画の中で最も好きなシーンです。これほどの神々しい抱擁シーンは他にありません。絶対にして犯すべからざる高みに在るものです、私にとってはね。

 タルコフスキーの高みに上ることは出来ないって分かっています。でも唯々諾々と現状に甘んじて地を這うのは嫌です。

 これからもずっと彼は私を刺激し続けてくれるでしょう。永遠の高みから。彼の視線は神の視線ですからね。