それはdéjà-vuではない2010/06/06 21:05

 今、ネットには写真関係の多くのサイトが有り、ブログが有り、ここにきてはtwitterもその存在を目立たせている。そこでは(無論僕を含めて)みながいっぱしの写真論客だ。

 それぞれを読んでみてそしていつも妙な既視感を覚える。そんなはずは無いと思っても、やはり因われてしまう。そしてもっとよく自問してみる「これは既視感か?」。
 そして得る答えはいつも「それは既視感ではない」ということだ。既視感ではなく、かつて自分たちがPC-VanやNIFTY-Serveでさんざんやってきた事とほぼ同じなのだ。既視感ではなく、かつての自分たちが20年以上も前にわぁわぁやってきたこと、その同じことをなぞり、いままたやっているに過ぎない。

 パソコン通信の経験はインターネットには引き継がれていない。彼らは繰り返している感覚なんかない、初めてのことなのだから。しかしあの頃を経験した我々には、もういい加減うんざりする事だったのだ。

 すでに答えが出ている事を、また新たになぞっているに過ぎない。そんな文章にはしょっちゅう出会う。そしていつもうんざりしてしまうのだ、20年前にやったことを、多くの人が主張していたことを、またやってる…

 ここ一年くらいに感じ続けているこのうんざりした感覚はこれだったのかとわかった。そうだったのだ。
 そう思うと、我々がパソコン通信でさんざんやりあったことは、それ以前の別のメディアで、もっと前の世代の人がさんざんやりあったことであろうことは想像に難くない。
 世の中は螺旋階段上に変化なんかしてない。おなじ場所をぐるぐると廻っているに過ぎないのだ。先へ進む、もしくは上へ登るのはそこからスピンアウトした者だけだ。

 そろそろこの馬鹿げたコーカス・レースから離脱するべきであろうということにやっと気づいたような気がする。最新のメディアだからそこで開陳される思想が最新のものとは限らない、なぜこんな簡単なことに今まで気づかなかったのか?

 それは自分が馬鹿だからだ。