今日は写真の日2010/06/01 17:16

 でも本当は、今日じゃなかったらしい。

http://www.psj.or.jp/gekkan/about/gekkan2003.html

 でもまぁ、それでも写真の日があるだけで、なんだか気分がいいから構わないでしょう、まったく。

 今、大阪写真月間で作品を展示してもらっています。モノクロ写真…おっと、モノクロ"銀塩"写真です。
 モノクロに置いてもデジタルの方にアドバンテージが有る現在、なぜ銀塩ウェットプロセスのモノクロ写真なのか?と問われれば、それが趣味だからとしか言いようがありません。

 いろいろと理屈を言えといわれれば、ありますが、もうこんな年齢だしそういうことも面倒くさくなってきています。まぁつまりは好きなのですね。面白い。無論、同時にデジタルもまた面白いのですけどね。

 どちらがどうなんて真剣に論争するのは…わかっていて遊びで論争するならともかく…ライカコンタックス論争でも無いですが、そんなものアホらしいだけです。どっちだっていいじゃないですか?好きな人が好きなように写真作品を作って人に見せて見た人がこれが好きあれは嫌いと楽しめばいいのではないでしょうかね。

 銀塩写真を見て「え?こうやってでも写真って作れるの?」ってびっくりする人がそろそろ現れて来ているんじゃないか?なんて事も思います。それをまた面白いと言う若い人も出てくるかも知れません。

 写真作品を作るに至る路は一つではない。かつて一つだったときにはお金や技術やなんかで序列ができてつまらない人物が幅をきかしたりしていました。でも今はだれもが簡単に目的にまでたどり着けます。それは素晴らしいことではありませんか?

 私の住んでいる街の少し南に生駒山があります。生駒山へ登るには人道を歩いてゆくも良し、阪奈道路から信貴生駒スカイラインを車で行くも良し、ケーブルカーもあればMTBでも行けます。生駒山から大阪平野や奈良盆地を見る、そこへ至る手段はがいろいろと選べるなんて楽しいことでしょう?

 写真も作品を作る手段がいくつか選べるってのは、それは実に豊かなことだと思うのですね。
 多様性を認めてたのしくやりたいものです。排他的になるのは、嫌ですね。

 さて、そろそろ夕暮れです。写真の日の一枚を撮影に行ってきましょう。やはりフィルムで撮っちゃいますけどね。

それはdéjà-vuではない2010/06/06 21:05

 今、ネットには写真関係の多くのサイトが有り、ブログが有り、ここにきてはtwitterもその存在を目立たせている。そこでは(無論僕を含めて)みながいっぱしの写真論客だ。

 それぞれを読んでみてそしていつも妙な既視感を覚える。そんなはずは無いと思っても、やはり因われてしまう。そしてもっとよく自問してみる「これは既視感か?」。
 そして得る答えはいつも「それは既視感ではない」ということだ。既視感ではなく、かつて自分たちがPC-VanやNIFTY-Serveでさんざんやってきた事とほぼ同じなのだ。既視感ではなく、かつての自分たちが20年以上も前にわぁわぁやってきたこと、その同じことをなぞり、いままたやっているに過ぎない。

 パソコン通信の経験はインターネットには引き継がれていない。彼らは繰り返している感覚なんかない、初めてのことなのだから。しかしあの頃を経験した我々には、もういい加減うんざりする事だったのだ。

 すでに答えが出ている事を、また新たになぞっているに過ぎない。そんな文章にはしょっちゅう出会う。そしていつもうんざりしてしまうのだ、20年前にやったことを、多くの人が主張していたことを、またやってる…

 ここ一年くらいに感じ続けているこのうんざりした感覚はこれだったのかとわかった。そうだったのだ。
 そう思うと、我々がパソコン通信でさんざんやりあったことは、それ以前の別のメディアで、もっと前の世代の人がさんざんやりあったことであろうことは想像に難くない。
 世の中は螺旋階段上に変化なんかしてない。おなじ場所をぐるぐると廻っているに過ぎないのだ。先へ進む、もしくは上へ登るのはそこからスピンアウトした者だけだ。

 そろそろこの馬鹿げたコーカス・レースから離脱するべきであろうということにやっと気づいたような気がする。最新のメディアだからそこで開陳される思想が最新のものとは限らない、なぜこんな簡単なことに今まで気づかなかったのか?

 それは自分が馬鹿だからだ。