そろそろフィルム現像しないと…2009/10/07 15:22

How
現像せよ


 …また使っていますが…。
 いやほんと、現像どころか撮影せんと裁きにあいそうです。
 さっぱり撮ってないとはいいながらも、それでも未現像が溜ります、季節も良くなってきたのだし、そろそろ現像せんとあきません。何週間かかるかわかりませんが、重い腰をあげましょう。

 涼しくなって、少し撮りたいと思う気持ちも高まってきました。それでもなんとなく、重たい中判はGA以外持ち出す気にならず、小型のライカでもしばらくぶりに使ってみるかぁと思っています。できればライカで都会っぽい格好の良いリリカルな写真をとってみたいのですが、自分には到底無理だと判っています。それでもなぁ、スタバの壁に掛かっているようなカッコイイ写真をとってみたいです。

 あ、その前に長尺フィルムを切り分けなくちゃ…。

和歌山県御坊市・輪行撮影2009/08/20 20:49

せっかくの夏休み期間なので、青春18切符を片手に、カメラと小さな自転車を抱えて、和歌山県は御坊市まで出かけてきました。

 目的はなんてたってこれ↓


 紀州鉄道のキハ603です。
 とにもかくにも、まずはこの気動車に乗るためにやってきました。なんでももう今年いっぱいで引退だとの事。経営状態が不如意なためか、あまり手入れもされていない様子で、もう持たせるにも限界が来ているのでしょう、残念な事です。

 車内はご覧の通り。これはもう焼酎「二階堂」のCMに使えますね。ぜひ使って、映像を残して欲しいです。油引きの床、ニス塗りのシート枠、なにもかも木製で素晴らしい。



 終着駅の西御坊。駅舎の裏口はこんな路地でした。



 さて、西御坊からこの先の日高川まではかつては列車が走っていました、その廃線跡をまずたどります。



 あっと言う間に廃線跡の終着駅に到着。味わい深いです。



 今回は小型軽量のトレンクルです。デブの私が乗るのもなんなんですが、なんせ軽いもので…。

 さて、御坊市街ですが、殆どはモノクロフィルムで撮りましたので、デジタル映像はちょっとだけです。

 こんな自転車の看板があったり。山口ベニー号って自転車がありましたっけねぇ…。



 こんな「おベンツ様」が鎮座ましましていたり…



 こんな懐かしい看板があったり…



 これも懐かしい看板ですねぇ…



 さて、今度は西御坊から分岐する別の廃線あとをたどります。こちらは廃線になってひさしい紡績工場への専用引き込み線です。



 覆い被さる樹木が、時の流れを感じさせますね。



 こんな家のすぐそばを貨物列車が走っていました。

 西御坊駅へ戻ってみましょう。終点はこんな感じ。



 ただ、柵をしてあるだけです。まさに「断ち切られた」って感じ。



 反対側はこんな感じ。なんと味のあるたたずまい。

 ここで少し休憩。飯屋で昼食をとりました。さて、そろそろ帰りの電車の時刻も迫っています。御坊駅へと向かいましょう。



 沿線には「テツ」な人が盛んに撮影をしています。



 紀伊御坊駅では硬券を購入。



 なんという風情!ちいさな踏切。もうシビレますね。



 やがて、ゆっくりとキハ603がやってきます。自転車くらいのスピードで単機独特のジョイント音を響かせ…ごっとん…ごっとん…。


 さて、今回のお土産は…



 まずは醤油。



 おつぎは蜂蜜。流行っているのかな?



 そして紀州名物金山寺味噌。

 どれもおいしゅうございました。

 ご多分に漏れず、自転車も撮影もどうしても中途半端にはりますが、逆に欲をかかなければ、こんなにお気楽に楽しい撮影行はありません。がつがつ撮らなくてもいいですよねぇ…。

涼しい顔。腹に溶岩。2009/07/09 10:37

 ここのところ制作活動などろくにやっていなかったので、ここに何か書くと云うことも滞ってしまいました。読んで頂いていた皆さん、申し訳ないです。

 大阪写真月間2009も終わってしまい、次のHow are you, PHOTOGRAPHY?展に向けて構想を練ると云うことになっているのですが、なかなか脳が上手く動いてくれず、暑さのことも加わって、なんだかぐんにゃりしている状態です。

 それでも写真は撮っています。軽い小型カメラやクラシックカメラにフィルムを詰めて散歩がてらの撮影という、もう枯れた爺さんみたいな事になっちゃっています。PEN-EEDやらFUJICA35やらVITESSAだのRetinaだのCONTESSAだの…。使う必然性があるからでなく使いたいがために使うカメラたちで、そう云うのはこれらのカメラを作った方達に失礼かな?とも思うのですが、楽しみ方は人それぞれなので赦してもらいましょう。

 こうやって撮っている時は、枯れた年寄りみたいなんですが、"優良物件"に出っくわしてばしゃばしゃ撮っている時って、きっとギラギラして見えるんだろうなぁと思います。夕暮れの福島の路地に居ても、なんとなく鈍い光と汗くささを放っているんじゃないか?なんて思います。もっと夕闇にとけ込むようにそこに佇んでいたいと思うのですが。

 風光明媚な観光地なんかで撮影していらっしゃる皆さんも、かなりギラギラした感じです。ギラギラするというのは、目の前に展開される光景に感動しているのではなくて、感動はしているものの、それを作品としてモノにしてやろうと云う欲が、ギラギラさせてしまうのだろうなぁと思います。
 どちらかというとギラギラには否定的な感情を抱いてしまいがちです。なんか格好悪い感じがして。でもギラギラしているのは必死になっているのともまた違います、浅ましくは無いと思うのですね。粗にして野だが卑ではないって云うか。だからギラギラするのもそんなに悪い事じゃない、そんな風に思います。ああ、一体何を云っているんだか…。

 社会福祉の仕事をしていた頃「熱いハートとクールな頭」とよく云いました。頭まで煮えてしまうとまともな処遇などできるわけもないと云うことですが、これがなかなか難しいことで大抵の人は頭まで煮えているか、心底冷酷かどちらかでした。前者は民間の社会福祉施設に、後者は行政機関に大量に居りました。いやでしたねぇ、こういう連中が。

 そんな経験もあるので、ギラギラするにもバランスを取ってと思います。表題にあるように「顔は涼しく。でも腹の中には熱いドロドロのマグマがうず巻く…」ってぇのが良いのかもなぁ…と思います。

今年は富士のGA645iの出番が多いです。きっとこのカメラが自分が思う撮影のスタンスにぴったり来ているんだと思うのですね。うろぼろす堂に出会った時、ハッセルブラッドを持っていたらギラギラどころがムラムラ来ていると思ってください。ローライフレックスやブロニカなら普通にギラギラ。ペルケオやスーパーシックスを持っていたらその日は枯れていると思ってください。

夢のボロ市~真夜中に小声で歌う2009/06/16 23:27

 「こう云う写真を撮りたい!」と心の奥からわき上がってくるイメージや感情もありますが、同時に、この「世界を写真に撮りたい」と思う事も多くあります。
 ずっと想っているのにまったく手も付けられないのは「銀河鉄道の夜」。多くのシーンを現実世界のなかから切り出したいと、もう随分長い間想っています。ところが想っているうちに時間切れが近づいて来ています。そろそろ急がなくてはなりません。

 多くの文学に写真を撮る気持ちを刺激されますが、こんな詩歌も、この現実世界から切り出してみたいです。ミヒャエル・エンデの「夢のボロ市」(Trödelmarkt der Träume)。詩(正しくは詞)全節を引用。丘沢静也訳。

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夢のボロ市 

きょう、夢のボロ市へ行ってみた。
世界のはじっこにあって、いろんなものがあった
盗まれたもの、投げ捨てられたもの、壊れたもの、
中古の、そしてそのまた中古の夢の品。
空飛ぶ絨毯はイガの穴だらけ、
でこぼこの光輪は、星とおさげ髪、
鍵のない空中楼閣は、錆でボロボロ、
昔かわいがられていた人形も、今は首がない・・・

そしてそんなガラクタたちのなかに、突然、
ぼくらの愛の、美しい夢も発見したのだ。
その黄金色は曇っていて、夢は壊れていたけれども、
黄金のようにすばらしく―そしてあいかわらず美しかった。
できればそれをきみに返したいと思って、
蒼ざめた男に尋ねてみた。
にやりと歯のない口をあけ、男はぼくを見つめ、咳ばらいして、
恥知らずな値段を吹っかけてきた。

なるほどそれだけの価値はある―けれどもぼくは交渉した。
敵はだまっていた、が、折れなかった。
だから夢は買いもどせなかった。
風向きがよくないんだ。もうそんなに豊かじゃないんだ。
結局すごすご手ぶらで引き返したが、
ひとつ知りたいことがあった。
あれは贈られたのか―盗まれたのか―投げ捨てられたのか ?
ねえ、きみ、教えて―どうやってあの夢があそこにまぎれこんだのか ?

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 ちなみに私の娘はカタカナで「モモ」と言う名前です。エンデの著作からいただきました。

マリオ・ジャコメリのデミタス2009/06/14 20:34

ジャコメッリのデミタス

 あんまりネタがないもので、写真に関るならなんでもと、ちょっと引っ張り出してきて、下手糞なスティルを撮りました。

 これ、イタリアのエスプレッソで有名なメーカー、"illy"が出していたもので、イタリアの写真家である、マリオ・ジャコメッリの作品がプリントされています。これは修道士が輪になって踊っている作品。有名ですよね。

 カメラと同じく衝動買いです。安くはありませんでしたが、こういうものにはなかなか出会えないので、買っちゃいました。

 あんまり使う事は無く、飾って楽しんでいますが、時々はこれにエスプレッソを入れて飲み、写真が上手になるようにお祈りしています。

大阪写真月間2009終了2009/06/05 09:12

 二日の日に写真月間での展示が終了しました。今年も例年と同じく楽しく過ごせ、また次の写真展への構想などもつらつらと考えていました。ああもしようこうもしようと思いますが、なかなか実行には移せませんね。

 この大阪写真月間が今年限り、もう来年は無いかも知れないという噂もあるそうです。そうとしたら残念ですね。来年は裏方でなにかお手伝いが出来たらと思っていたのですが。
 この貴重なイベント、なんとか続けて欲しいものです。参加者としてやってきて、小さな写真展イベントを開催してみた経験からも、このイベントに提案したい事柄が幾つかあります。そのためにも裏方にと考えています。

 さて、お次は京都でのHow are you,PHOTOGRAPHY?展です。どんな作品を作ろうかと今から楽しみにしています。
 いっぱつ「お洒落」な作品でも作れないものかと思うのですが、ダメですねぇ、ちっとも作れません。

大阪写真月間2009忘牛存人と思う2009/06/01 09:59

 写真月間も後半に入り、私はもう既に明日が搬出日です。
今年も様々なテーマの写真が展示されました。昨日一緒にギャラリ巡りをした友人知人の皆さんとお話をしていたのですが、様々な思いを持って様々なテーマで、様々なスタンスで作られた作品が一堂に会しているその素晴らしさと楽しさが、この大阪写真月間の最大の美点ではないでしょうか。
 非常に作家性の強い作品もあれば、サロン的作品もあるし、流行の写真教室的作品もあります。技術的な巧拙はあるかもしれませんが、その表現方法に優劣などありません。どれもが賞賛されるべきもので、同時にどれもが批判の対象となるべきものです。

 "どの花見てもきれいだな"と童謡「チューリップ」に歌われてるように、私にはどの作品も「うんうん」と思えます。自己満足で表現の空回りしているかのような作品がダメですか?私にはとてもそれが可愛らしく思えます。「これが写真なのだ」と押しつけがましい風景写真にアレルギーが出ますか?私にはそれはやはり美しい写真に思えます。それぞれの作品が作者の自己満足に付き合わされているように感じますか?私はそれが楽しいと感じますよ。

 写真表現に一つの決まった「解」は無いと私は思います。「写真表現とは『私はこう感じました。あなたはどうですか?』との問いかけである」という、京都の老舗写真ギャラリ「・DOT」の岡田悦子氏の言葉をいつも意識しています。あなたのお好みに沿うように作りましたというのもありでしょうし、あなたの神経を逆なでするように作りましたというのも過激かも知れませんが「あり」だと思っています。(もっともこういう大きなイベントの場合は個展よりもずっと強くポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスの縛りがかかるとは思いますが)

 大阪写真月間にはひとつの「鍵」があると思います。それは、このイベントがコンテストではないということです。無論(前述の社会一般の通念に沿った常識的な縛りはあるでしょうが)出品に審査もありません。競わない、審査しないと言う事はそれぞれの表現の尊重が担保されているという事です。これは素晴らしい精神であると言えるでしょう。権威を嫌う大阪らしい考え方かも知れません。この精神はいつまでも大切にして欲しいと、ほんとうに願います。

 さて…
 禅の十牛図のひとつに「忘牛存人」があります(十牛図や忘牛存人については検索して下さい)。私にとっての写真もここらあたりまで来ているかな?と時々思います。口では嘘くさい謙遜をしていますし腹の中ではいつまでも生臭くありたいとも思っています。しかし今、実感として、自分の写真行為は全く生活の一部として組み込まれ、自然に事が運ばれているように思えます。特に意識し、意気込むでもなく。自然に、あたりまえに撮影をし生活をしているかもしれないなと思います。
(忘牛存人については、たとえばこちら。http://www5.ocn.ne.jp/~mazuchk/07bougyu.htm
(十牛図に関しては、たとえばこちらが。http://shop.rinnou.net/shop/A125/QSgyt6ZbX/syoinfo/601

 私は自分探しの旅をするような人間ではありませんが、自分にとって写真を撮ると言う事はどういう事なのか?と常に意識はしています。写真は生きて行く中での大きな愉悦であるところからはじまり、今はもう少し愉悦とは別のものへと変化しているように思えます。そしてその過程の中で、写真は「みんなちがって、みんないい」と今は思えます。
 おそらくこの先、そんな事も意識しなくなってくるでしょう。十牛図の暗示から考えれば。きっとあと20年(私が生きていればですが)たったら「ああ、うろぼろす堂も呆けたなぁ」と言われるでしょう。でもそれは呆けたのではありませんよ、「入鄽垂手」です。

 わいわいと賑やかな世界からほんの少し離れたところに立って、しかししょっちゅうその世界に入浸っている、そんな自分の感覚から写真月間や、その写真月間を評したブログなどを読むに付け、いろんな考えがってまたそれもありだと、思うところあって少しエラそうに書いてみました。

長文失礼。

フード病治癒2009/04/28 09:06

 長らく患っていたフード病ですが、このたび治癒しました。フード無しでももう平気で撮影できるようになりました。

 考えてみるに、もともとスプリングカメラを割合多く使い始めた時期から治癒への道は始っていたのでしょう、フードを持ってはいるものの、使わない事も多かったのです。ペルケオ。イコンタ・ビテッサ…どのカメラのフードも外れやすく、けちくさい自分は安くもないフードを失うことを恐れて余り使わないという本末転倒な事になってしまっていました。

 次のきっかけは去年から少しずつ撮り始めたトイカメラによる撮影で、もとよりトイカメラはフードなんかついていませんからそのまま撮影することになります。有害光・迷光が入ったら入ったでそれも絵の一部と考えるわけですからなにもかもそのまんま。そうこうするうちに、そのまんまでもいいかぁ…と考え始め、そこに今年のGA645iで携帯性をよくするためにフードをつけない事にしたのが決定的でした。

 もう強迫的にフードのないカメラ・レンズは使えないなんてことは無くなりました。保護フィルタもさして気になりません。この先、自分とともにカメラも少しずつ消耗し、朽ちて行けばいいのだと考えるようになってきたのでしょう。

 新しいGF670はフィルタをつけたまま折りたたむことすらできません。これがフード病を患っていた時期ならひどく気にかかった事でしょう。でも病が治癒したおかげで、なんとも思わなくなりました。フィルタをつけて折りたためたらいいなぁとは思いますが、出来無いからがんがん使えないと言うこともありません。

 強迫的で無くなると言うことはなんと開放された楽な気分なのでしょう。こだわりが無くなるというのは、それはそれでいいものだなぁと思います。あれもこれもときょろきょろするのは、あまり格好が良くないとされていますが、道楽の世界ではそれもまた「あり」だと思うのですが。

GF670実写してみました。2009/04/25 11:22


 GF670がやってきました。昨日の日誌にも書いたのですが、あれから昼間に撮影したモノクロフィルムを現像してみました。

 たった二本撮影しただけですし、作例もひどいものですし、光線状態にもバリエーションを持たせて撮影したわけではありませんが、この時点での感想としては、とてもいいレンズだと思いました。解像力やコントラストやトーンがうまくバランスしている、優秀な現代的レンズです。逆光や人口光線下、最短距離での撮影も良い結果でした。これまでのフジノンレンズのことを考えれば、その他の条件下でも問題はないでしょう。

 ネガをスキャンして見た第一印象で思った事は、ハイライトのトーンが豊富で、シャドウは若干落ち込むかな?ってところですが、これはまぁ露出や現像の加減からそうなったのかも知れません。ですがまぁTMYとの相性は悪くないという感じがします。

 ハッセルブラッドのレンズと同じような用途…非常に素性の良い素材としてのネガをつくる…事の出来るカメラだと言う印象を、今、持っています。

レンズの修理2009/04/13 18:56

 修理に出していたVoigtlander NOKTON classic 40mmF1.4 SCがやっと戻って来ました。
 このレンズはヘリコイドの摺動が最初から悪い(敢えて渋いとは言いません)事でも有名なレンズです。使っているうちにアタリの来るのもあればそのままグリス切れになってカクカクしちゃうのもあります。私の使っているのは後者でした。ここにきて「とうとう使えなくなった」というのが、事の経過です。

 さて、ヨドバシの「修理ポイント」も溜っている事だし、これで修理しようとヨドバシへ持って行きました。それが2月22日。ほどなく修理が上がってきたので引き取りに行きました。確かめてくれと言うので確かめたところ、確かにグリスの足されている感触はあるものの、肝心の摺動の悪さはそのままでした。この修理、メーカーであれば部品を交換して動きが非常に滑らかになるとネットのどこかで読んだことがあるので、おかしいと思って伝票を見ると、修理したのは大阪の日研テクノでした。メーカーがそこを指定しているのか、ヨドバシが独自にそこへ出しているのか知りませんが、この修理にはがっかりしました。修理内容もグリスアップのみでした。
 その場ですぐに、「直っていない」とクレームを言い再修理を依頼しました。

 さて、それから1ヶ月と少し経った昨日。件のレンズは戻ってきました。その場で確かめてみましたが、見事に改善されていました。修理したのはメーカー。内容もヘリコイドと指標(恐らく一番マウント側のリング)交換となっていました。
 嬉しかったですが、同時に複雑な気分でした。単に客が納得しなかったからメーカーに回した。それだけの事だとは思うのですが、日研はどうして最初からパーツ交換で修理してくれなかったのでしょうか?明らかに直ってはいない品物を客に返してきたのです。
 しかも修理料金は同じです。私がクレームを付けたから、仕方無くコスト無視で修理してくれたという事なのでしょうか?そうではないのなら、最初のパーツ交換を含まない修理代金の請求はなんだったのでしょう?ちょっと考えてしまいますね。傍目には悪く解釈すればゴネ得とも思われかねません。

 まぁとにもかくにも直って嬉しいです。直ったからあんまり文句は言わないようにしたいのですが、もし他にこのレンズのヘリコイドの摺動の悪さにお悩みの方は、直接メーカーに部品交換を伴う修理を依頼された方が良いと思います。きちんと修理されて帰ってきますよ。