そろそろフィルム現像しないと…2009/10/07 15:22

How
現像せよ


 …また使っていますが…。
 いやほんと、現像どころか撮影せんと裁きにあいそうです。
 さっぱり撮ってないとはいいながらも、それでも未現像が溜ります、季節も良くなってきたのだし、そろそろ現像せんとあきません。何週間かかるかわかりませんが、重い腰をあげましょう。

 涼しくなって、少し撮りたいと思う気持ちも高まってきました。それでもなんとなく、重たい中判はGA以外持ち出す気にならず、小型のライカでもしばらくぶりに使ってみるかぁと思っています。できればライカで都会っぽい格好の良いリリカルな写真をとってみたいのですが、自分には到底無理だと判っています。それでもなぁ、スタバの壁に掛かっているようなカッコイイ写真をとってみたいです。

 あ、その前に長尺フィルムを切り分けなくちゃ…。

手間こそが写真だった2009/10/14 20:28

 写真家のtake1mg氏のブログ、毎回静かに深い洞察が延べられているのですが、今回のエントリーは特に箴言でした。実にはっとさせられるものでした。

 "モノクロを始めて、写真は手軽でなくなった。むしろ面倒くさいものになってきた。スマートなものでもなく、ちょっと野暮ったいくらいの地道なものになってきた。"

 いままでそんな事を考えた事もありませんでした。中学生の頃、いきなりDPEから写真を始めた私は、それが写真だと思っていました。だから若い頃にはDPEに何のストレスも感じなかった。ところが今になってこれらの行為がとても面倒になってきてしまいました。「なんでこんなに面倒くさいのだろう?」と、今年なんぞはほとほと嫌になってきていたのですが、そうでした、面倒くさいのが写真なのでした。

 面倒くさくない方法を模索するのは、僕にとっては逆に写真から離れる事になるのかも知れません。だとすれば面倒を厭うて手間を省く事を考えるより、その面倒さをより楽しくスマートに、快適にこなせるようにする方がきっと良いのでしょう。

 彼は私より若く、おそらく写真の経験も私より少ないでしょう、しかし写真という行為を捉えると言う事については、私よりもずっと高みを、また真実に近いところを飛翔しているのだと思いました。

 去年の2nd6-Motion"R"展に出品された彼の作品のなかに、背の高いススキの原にたたずむ女性を撮ったものがありました。穏やかで静かな、それでいて魂を感じる名作でしたが、そうか、この洞察があの作品を生むのだな、そう思いました。

 今の私にはたいへん心に響く一文でした。

ネガの劣化始る2009/10/15 12:55

「銀化」が始ったネガ(T_T)
 掲載した写真はモノクロポジではなく1976年に撮影・現像処理されたモノクロネガです。

 モノクロネガは黒いものの前に置いて反射光で見ると反転して見える事があります(ダゲレオタイプの写真がこう云う感じ。参考http://imeasure.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-eed5.html)(http://www.monokowashi.com/senjin/photo_tech/as_you_see3.html)が、これはそれが酷くなったもので、私達は「銀化」と呼んでいます。が、この言葉、ネット上にも無いんですよね。実際のところなんと呼ぶのでしょう?

 新鮮なモノクロネガでもこういう現象は起こりますが、劣化したものはそれが酷くなります。
 またこれはプリントでも起きます。古い写真がネガっぽくなっちゃっているなんて事がありますね。

 まぁとにかくショックでした。おまけにルーペで見ると、みみず腫れのような傷…たぶんカビ…。ダブルパンチです。思い切り凹んでいます。

 さて、これらのネガはもはや救済のしようがありません。ですから、今のうちにスキャナにかけてとりあえず映像を得ておく事と、やはり今のうちにプリントしてアーカイバル処理し保存しておく事しか方法はありません。

 ごく一部とはいえ、たった33年前のネガを劣化させてしまったというのはショックです。高校生の頃にアーカイバル処理の概念など無かったとは言え、その知識を得た時点で対策を取っておくべきでした。
覆水盆に返らず。ヽ(`Д´)ノウワァァァァン!

 特に劣化を起こしているのは、カビについてはグラシン・ペーパーのネガ袋に入れていたものに、銀化については、ポリエチレンのネガシートに入れていたものに出ている傾向があるように感じます。
 同時に、これらの保存用包材に収められたものは、制作した年代が古く、従って現像定着水洗処理が不完全であった可能性も多いと思います。これらは全てベルト式の現像タンクで処理されたものです。ですから保存用包材だけではなく、化学処理の問題とも相まって劣化を引き起こしたと考えられるでしょう。

 もしこれを読まれている人の中で、昔ながらのグラシン・ペーパーのネガ袋で保存されている人いらっしゃいましたら、今すぐ止めるべきです。無論、写真保存用に作られている無酸性グラシン・ペーパー素材なら別ですが。
 とにかく間違った保存方法は一日でもはやく改めた方が良いというのが、ネガを劣化させてしまった阿呆からの意見です。

 写真の保存についての考え方は参考書も出ていますが、こちらに簡単に書かれたものがあります。
 マーク・ルーサ(米国議会図書館)著・アンドリュー・ロブ改訂・国立国会図書館訳の文章です。
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/pdf/ipi5jpn.pdf

 参考書は
http://www.amazon.co.jp/写真保存の手引き―現像・保管・展示のしかた-ローレンス・E-キーフ/dp/4639012799

過去のネガが苛む2009/10/20 15:35

 ネガの劣化について前に書きましたが、その時に、中学~高校時代のネガの全てに目を通しました。実に多くの事が写し込まれ、その毒気に当てられたのか、次第に気分が悪くなり、全て見終えた時は吐き気がして往生しました。

 以前に「思い出したくない過去は小学生の頃だ」と云っていましたが、今回、それどころでは無くなってしまいました。

 写真についても「自分の生きてきたという証明だ」と云っていました。しかし今、そんな証明などしたくないと思っています。

 なぜこんなに過去のネガを見ると気分が悪いのでしょうか。確かに人間というものは良い記憶よりも悪い記憶の方がしっかりと残るものです。戦争や自然災害の恐怖を語る人は多いですが、昭和元禄やバブル景気の頃の楽しさを語る人は少ない。悪い記憶をたどれば、今がその頃よりはましだと思えて、安心できるからでしょうか?

 中学高校から10年後あたりのネガも少し探ってみたのですが、結婚式や友人家族の写ったネガが多く現れます。しかし、その中には既に離婚してしまったりして、ばらばらになった家族も多い。本人に高い値で売れるなと言うような…むろん冗談ですが…そんなネガも幾つかあります。やはりこれなんぞも、記憶は苦く酸っぱくまったく良い気分ではありません。

 人間、そこそこの年齢になると全身傷だらけです。猫も鯨もそうです。生きると言う事は傷つき次第に壊れて行くというだけの事、記憶もまた然りで、恥とトラウマばかりが増えて行きます。僕が死ぬ時というのは、恥とトラウマに押しつぶされて死ぬのだなとわかりました。

 写真は表現でも記録でもなく、生きてきた過去の残滓なのかも知れません。古い皮膚のように剥がれ堕ちて行くもの。美しい肌も新陳代謝をして垢を落としながら命脈を保つ訳で、しかし垢は垢で美しいものではありません。そんな垢を拾い集めて分類して保存してあるとすれば、たとえそれが美しい人の肌から剥がれ落ちたものであっても、それは汚く気分が悪くなるのも当然なのかも知れません。

 写真は真実を写すものでもなければ光で描いた画でも無いかもしれませんが、しかし表に出ている限りのありのままを写しとり、そこに結びつく記憶とで構成されたものではある…そう思い始めています。

 とにかくネガボックスには膨大な過去が詰っています。ネガボックスを探ると、その過去が今の僕の整理を拒否し、してきた事の帳尻合わせを要求して来ます。都合よく美しく整理されおとなしくエクセルに登録されるなんて事はなかったのです。

 ネガの整理が気の重い…というか、精神的に耐えられるのだろうか?という作業になってきています。でもネガの劣化は待ったなし。今できる最良の選択は出来るだけ速く整理し、必要なものだけプリントし、あとはデジタル化し、保存できる状態にしてから封印してしまい、過去に耐えられるようになったらそのとき再び封印を解くという事かも知れません。それにしても、かなり時間と労力とお金のかかる事ではありますが。

 いい歳になってこんな事になるなんて、思ってもみませんでした。

カラーを撮らなくなったのは…2009/10/26 18:37

 "写真にまつわるモノコト"のpbさんが怒っています。詳しい事はかれのエントリー
http://photoboze.exblog.jp/12738897/
 を読んで頂くとして、私も似たような理由で…私の場合はフィルムのカットの仕方で…とうとうラボとの付き合いを止めました。カラーは撮らない、色素画像フィルムも使わない。
 決して、写真にあるような、イエローカードをいっぱい食らったからだと云うわけではありません(多少有るかも知れませんが)。

 ラボは会社です。そして働いているのは写真の事を理解している職人さんじゃない、自動現像機のパーツもしくは端末に過ぎないのです。
 云われた事しかできないしやらない、またやれない。客の味方をして会社に睨まれたり職を失ったりすよるよりは、客の事など考えないで会社の云う事を唯々諾々と受け入れて守っていればよいわけです。しかもその会社の考えというのが恐ろしくスカタンなので、どうしようもない訳です。

 ラボが常に安定して必ず同じ答えを出してくれば、こちらも撮影機器の一つとして利用の仕方を心得て使うでしょう、ところが、不安定さだけは人間並みなのです。
 今までやって来た事がいきなり方向転換され、過去の事は知らぬ存ぜぬなんて事は当たり前に起こる。現像の結果も安定しない。時にフィルムの扱いが悪く傷が入る、スライドのマウントは紙になったりプラになったりメーカーが変わったり…。無論、イエローカードの基準もめちゃめちゃです。そこを突いたところで、向こうはひたすら頭を下げながら、黙んまりを決め込むばかりです。

 ほとほと嫌になり、ラボの世話にならざるを得ない(自家処理をする気はありません)カラー写真は止め、色素画像フィルムも使うのを止めました。カラーは自分で自分所有の機械を使ってやれるデジタルだけにしようと考えた訳です。

 もっとも、まだデジタルカラー写真をやってはいませんけれどね。

 それにしてもラボはどちらの方向を向いて仕事をしているのでしょうかね。こんなにフィルムの仕事が減りっても、まだこんなことをしている。これでは早晩、滅亡してしまうでしょう。もしかしたら、それをラボは望んでいるのかも知れません。嘆かわしい事です。

などかはおろさぬおえるおもにを2009/10/29 09:12

 先週の土曜日に中学時代の友人達が飲み会に誘ってくれ、ひととき楽しい時間を過ごして来ました。

 ちょうど、古いネガを整理していて、駄洒落じゃないですがそれこそネガティブな事ばかり思いだして、ひとり落ち込んで苦悶しておりましたが、それらが随分とカタルシスされました。

 そのネガティブな記憶の内容が自分が思うほどネガティブじゃないって事が、昔話をするたび友人達によって証明され、そのしんどさが次々と消去されて行きます。
 私は自分の子供の頃の事をあまりにも今の物差しで測りすぎていたのでしょう。でも、その頃にはその頃なりの真実があった訳です。

 子供の頃…と言っても、とてもデリケートな思春期の…ある一定の期間に同じ時間と空間を共有したという事実の強さ、そして忌憚無く…それでも大人としての配慮を持って…話しのできる友人の存在というのは、なんと有難いものかと思いました。

 キリスト教者じゃなくても知っているあの有名な賛美歌312番の一節に、「などかは下ろさぬ負える重荷を」とあります。その前節は「心の嘆きを包まず述べて」となっているのですが、今までその意味を「苦悩を告白して楽になりなさい」という呼びかけだと理解していました。それも間違いではないのですが、正確には「なぜ苦悩を告白して楽にならないのですか?」と、もっと強く呼びかけているのですね。

 まさにそんな気分です。一人で勝手にネガティブな記憶として定着されそうになっていた事が、語り合う事によって、浄化され、救われました。

 ともあれ、実に楽しい時間を過ごせて、過去が浄化され、随分と気分が清々しいです。このまましっかりと整理と保存、そしてプリントの作業を続けて行きましょう。あまり沢山のフィルムがあるわけではないのですが。
 
 当日の友人達のブログはこちら…

おっじーのボケ防止
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